月. 12月 1st, 2025

あなたは「長嶋一茂さんのお母さんは何が原因で亡くなったの?」と思ったことはありませんか?結論、長嶋亜希子さんは心不全で64歳の若さで他界されました。この記事を読むことで死因の詳細や闘病生活、家族との絆がわかるようになりますよ。ぜひ最後まで読んでください。

1.長嶋一茂の母・亜希子さんの死因とは?

1.長嶋一茂の母・亜希子さんの死因とは?

公式発表された死因は心不全

長嶋亜希子さんの公式な死因は心不全と発表されています。

2007年9月18日午前4時33分、東京都内の病院で息を引き取られました。

享年64歳という若さでの逝去は、多くの関係者に衝撃を与えました。

心不全とは心臓の機能が低下し、全身に十分な血液を送れなくなった状態を指します。

公式発表ではこの死因のみが公表されましたが、背景には長年の闘病生活があったことが後に明らかになりました。

突然の体調不良から数時間後に急逝

亜希子さんが亡くなる前日の9月17日、長男の長嶋一茂さん夫妻や双子の孫たちと都内のホテルで楽しく会食をしていました。

食事を終えて帰宅する途中、一茂さんの運転する車の中で突然体調が急変しました。

呼吸困難の症状が現れたため、すぐに都内の病院へ緊急搬送されましたが、病院到着時には既に意識がない状態でした。

知らせを受けた夫の長嶋茂雄さんや次女の長島三奈さんも駆けつけましたが、意識が戻ることはなく、そのまま明け方に息を引き取られました。

楽しい家族団らんの直後だったため、あまりにも突然の出来事でした。

20年以上患っていた膠原病との関係

亜希子さんは1980年代半ばから約20年以上にわたり膠原病という難病と闘っていました。

膠原病とは、全身の結合組織に炎症が起こる自己免疫疾患の総称で、関節の痛みや内臓の障害など様々な症状を引き起こす病気です。

晩年には心臓や腎臓にも合併症が出ており、週3回の人工透析を受ける生活を送っていました。

長年の闘病による体への負担が蓄積し、最終的に心不全に至ったと考えられています。

それでも亜希子さんは、夫の個人事務所である株式会社オフィスエヌの代表取締役としての責務を果たし続けていました。

自殺説が流れた3つの理由

公式発表とは別に、一部で自殺説が囁かれた背景には3つの理由がありました。

第一の理由は、死因が「心不全」と発表されたことです。

一般的に、詳細を公表しにくい死因の際に「心不全」という表現が用いられることがあるため、疑念を持つ人がいました。

第二の理由は、葬儀が近親者のみの密葬だったことです。

国民的スターの妻という立場でありながら、友人さえも呼ばれない形式だったため、様々な憶測を呼びました。

親交のあったデヴィ夫人も「最後にお別れを言えなかったのが残念」とコメントしています。

第三の理由は、夫の愛人問題や宗教へののめり込みなど、亜希子さんが様々な悩みを抱えていたという情報があったためです。

しかし、これらの自殺説には客観的な証拠は一切なく、長男の一茂さんの証言からも、家族との会食直後に車内で急変したという経緯が明らかになっています

2.長嶋亜希子さんの享年と闘病生活

2.長嶋亜希子さんの享年と闘病生活

64歳という若さでの逝去

長嶋亜希子さんは1943年1月5日生まれで、2007年9月18日に64歳で亡くなられました

現代の日本人女性の平均寿命が87歳前後であることを考えると、非常に若い死と言わざるを得ません。

東京都渋谷区で生まれ、出版社社長の令嬢として裕福な環境で育った亜希子さんは、田園調布雙葉中学校・高等学校に通い、高校時代にアメリカへ留学しました。

英語・フランス語・スペイン語を流暢に話すマルチリンガルとして、聖テレサ大学を卒業後、1964年の東京オリンピックでコンパニオンを務めました。

そこで長嶋茂雄さんと運命的な出会いを果たし、翌1965年に結婚しました。

長年の膠原病との闘いの日々

亜希子さんの闘病生活は20年以上という長期間に及びました。

膠原病は、自己免疫の異常によって体の結合組織が炎症を起こし、関節や皮膚、内臓など全身に症状が現れる慢性疾患です。

完全に治すことが困難な難病とされており、ステロイドや消炎剤などで症状を抑えながら生活することになります。

亜希子さんの場合、病状が進行して心臓や腎臓にまで合併症が広がっていました

それでも表に出ることなく、家族を支え、夫の仕事をマネジメントし続ける姿勢を貫きました。

入退院を繰り返していた晩年

特に亡くなる数年前からは、体調が思わしくなく入退院を繰り返すようになっていました。

週3回の人工透析が必要になり、生活の質は大きく制限されていました。

長嶋茂雄さんが2004年に脳梗塞で倒れた際には、自身も病を抱えながら献身的に看病とリハビリのサポートを行いました。

田園調布の広い自宅は段差が多く、病を抱える身には不便だったため、バリアフリー対応で24時間理学療法士による介護のあるマンションへ転居していたとされています。

夫婦が別々の場所で暮らす時期もありましたが、これは治療環境を整えるための実質的な選択でした。

家族との最後の会食

亜希子さんの人生最後の時間は、愛する家族に囲まれた幸せなひとときでした。

2007年9月17日、長男の長嶋一茂さん夫妻、そして可愛がっていた双子の孫たちと都内のホテルで会食をしました。

その席で亜希子さんは楽しそうに過ごしていたといいます。

食事を終えて一茂さんの車で帰宅する途中、突然の異変が起きました。

家族との温かい時間を最後まで過ごせたことは、せめてもの救いだったかもしれません。

なお、この会食には夫の長嶋茂雄さんは同席しておらず、病院に駆けつけた時には既に意識がない状態でした。

3.一茂さんが受けた母の死の衝撃

半年で3人の身内を失ったショック

長嶋一茂さんは2007年、わずか半年という短期間で乳母、祖母、そして最愛の母を立て続けに失うという壮絶な体験をしました。

特に母・亜希子さんの死は、一茂さんの精神に計り知れない打撃を与えました。

自分が運転する車の中で母が苦しみ始め、病院に着いた時には既に意識がなかったという経験は、強い自責の念を生みました。

「もっと早く気づけていたら」「違う対応をしていれば」という後悔が一茂さんを苦しめ続けました。

この連続した喪失体験が、その後の一茂さんの人生を大きく揺るがすことになります。

重度のうつ病とパニック障害を発症

母の死後、長嶋一茂さんは重度のうつ病とパニック障害を発症しました。

「お前が死ね」「死んだ方が楽だ」という幻聴に苛まれ、悪夢にうなされる日々が続きました。

実は一茂さんは、プロ野球選手時代にも「長嶋茂雄の息子」というプレッシャーと結果が出せない挫折感から精神的疾患を患っていました。

しかし母の死によるショックは、それをはるかに上回る深刻なものでした。

外からは明るく振る舞っていても、心の中は深い闇に覆われていた時期でした。

自殺の一歩手前まで追い詰められた日々

最も深刻だったのは、実際に自殺を考えるまで追い詰められたことです。

一茂さん自身がテレビ番組で告白したところによると、「台所に行って包丁を持って、自分は空手をやっているから急所を知っている。『ここを切ったらすぐ死ねるな』って分かっている」という状態でした。

実際に包丁を手にして、自らの命を絶とうとした瞬間が何度もあったといいます。

この状態が半年ほど続き、一茂さんは死の淵をさまよっていました。

有名人の息子、元プロ野球選手という肩書の裏で、誰にも言えない深い苦しみを抱えていたのです。

娘の顔が救いになった壮絶な体験

自殺寸前で一茂さんを思いとどまらせたのは、双子の娘たちの存在でした。

包丁を手にしたその瞬間、隣の部屋で寝ている娘たちの顔が浮かんだといいます。

「娘たちが隣の隣で寝ていて、その顔を見ると自分の中で思いとどまった」と一茂さんは当時を振り返っています。

「この子たちから父親を奪ってはいけない」という思いが、最後の一線を越えさせませんでした。

母を失った悲しみと、娘を守らなければという使命感の間で、一茂さんは必死に生きる理由を探していました。

この経験を経て、一茂さんは精神疾患への理解を深め、後に自身の体験を公に語ることで同じ苦しみを抱える人々への支援にもつながりました。

母の遺言を10年以上忘れていたエピソード

母・亜希子さんには生前に一茂さんに託した遺言がありました。

それは「大戦中に英霊たちが散っていった鹿児島の知覧に、喉が渇く英霊のために水辺(噴水)を作りなさい」というものでした。

しかし一茂さんは、この大切な遺言を10年以上も忘れていたのです。

2020年になって突然「そうだ、おふくろ、そんなこと言ってた」と思い出し、すぐに行動を起こしました。

知覧特攻平和会館に連絡して寄付を申し出て、2022年に無事に噴水が完成しました。

母の想いを実現できたことは、一茂さんにとって大きな癒しとなったに違いありません。

4.長嶋家の絆と亜希子さんの人物像

4.長嶋家の絆と亜希子さんの人物像

茂雄さんとの運命的な出会い

長嶋茂雄さんと亜希子さんの出会いは、1964年の東京オリンピックでした。

報知新聞社が企画した座談会で、英語・フランス語・スペイン語を操る才女としてコンパニオンを務めていた亜希子さんに、茂雄さんは一目惚れしました。

茂雄さんは後に「翌日から彼女のことが気になってしょうがない。競技場でコンパニオン姿を見つけると、王貞治さんから双眼鏡をひったくって、彼女のことを探しました」と当時を振り返っています。

わずか40日間の交際期間で婚約し、1965年1月26日にカトリック渋谷教会で結婚式を挙げました。

華やかな球界スターと才色兼備の令嬢という、まさに理想的なカップルとして注目を集めました。

3か国語を話す才女としての経歴

亜希子さんの祖父・西村辰五郎は、石川啄木や斎藤茂吉、北原白秋、若山牧水など文学史に残る歌人の作品を出版した東雲堂書店の経営者でした。

父・西村光雄も内外出版社の社長を務める文化人一家で育ちました。

偏差値72の名門・田園調布雙葉中学校・高等学校に通い、高校時代にアメリカ・ミネソタ州に留学しました。

聖テレサ大学を卒業し、英語だけでなくフランス語、スペイン語も流暢に話せるマルチリンガルでした。

結婚前は外務省で働くことが夢だったといい、その語学力と教養の高さがうかがえます。

結婚後は表舞台に出ることなく家庭を守りながらも、株式会社オフィスエヌの代表取締役として夫のマネジメントを手がけました。

また、小泉純一郎内閣時代には環境省の「環の国くらし会議」のメンバーにも選ばれ、主婦の目線で環境問題に取り組みました。

ハワイにあるお墓の秘密

亜希子さんのお墓は、東京都世田谷区の長嶋家の墓所とハワイの2か所に存在します。

これは亜希子さん自身の遺志によるもので、亡くなった後に遺骨を分骨してハワイにもお墓が建てられました。

亜希子さんは生前、何年かハワイに住んでいた時期があり、とてもハワイを愛していました

長男の一茂さんも「母のお墓がハワイにあるので、いずれ自分もハワイのお墓に入りたい」と公言しています。

一茂さんがハワイを愛する理由の一つは、3歳の時に母と二人で初めてハワイ旅行をした思い出があるからだといいます。

一茂さんは仕事以外の日はハワイで過ごすことが多く、必ず母のお墓参りをしています。

ハワイの美しい風に永遠に吹かれていたいという亜希子さんの想いが、この選択につながりました。

近年、亜希子さんの影響もあってハワイにお墓を購入する日本人が増えているといいます。

家族を支え続けた聡明な母の姿

長男の一茂さんは母について「長嶋茂雄という男を陰で支えるにあたって、人には言えない、我々家族にも言えないようなトラブルや、いろんなことがあったと思います。最後まで聞けませんでした。そういうことを顔にも口にも出さない、気丈な母でした」と語っています。

友人の徳光和夫アナウンサーも「長嶋さんは誰でもウエルカムな人だから、悪役を買って出て、人の振り分けや交通整理をしていた。肝っ玉母さんみたいな人で、彼女がいなかったら、長嶋家は崩壊していたと思えるほど」とコメントしています。

国民的スターの妻として、様々なプレッシャーや苦労があったはずですが、それを表に出さず家族を守り続けました。

不満や愚痴を家族にさえこぼさず、内に秘めて自分の中で消化していく聡明さがありました。

夫が脳梗塞で倒れた時も、自身が病を抱えながら献身的に看病し、リハビリを支え続けました。

その姿は、真の賢夫人として多くの人々の心に残っています。

まとめ

この記事のポイントをまとめます。

  • 長嶋亜希子さんの死因は心不全で、2007年9月18日に64歳で逝去した
  • 1980年代半ばから20年以上にわたり膠原病という難病と闘っていた
  • 亡くなる前日に家族と会食後、車内で突然体調が急変し数時間後に急逝した
  • 自殺説が流れたが根拠はなく、長年の闘病による心不全が真の死因である
  • 長男の長嶋一茂さんは母の死後、重度のうつ病とパニック障害を発症した
  • 一茂さんは自殺寸前まで追い詰められたが、双子の娘たちの存在が救いとなった
  • 亜希子さんは英語・フランス語・スペイン語を話すマルチリンガルの才女だった
  • 1964年の東京オリンピックで長嶋茂雄さんと運命的な出会いを果たした
  • お墓は東京とハワイの2か所にあり、これは亜希子さん自身の遺志による
  • 家族や夫を陰で支え続けた気丈で聡明な母親だった

長嶋亜希子さんは、華やかな世界の裏で家族を支え続けた素晴らしい女性でした。病と闘いながらも最後まで気丈に生きた姿は、多くの人々に勇気を与えています。この記事が、亜希子さんの人生と家族との絆を理解する助けになれば幸いです。

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投稿者 mitapan

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